

私の価値は、誰かの言葉で決まる

人の目を気にして生きてきた。
母の目、父の目
友人の目、先生の目
上司の目、同僚の目
そのおかげで、空気を読めるようになった。
人の感情に敏感になれたし、誰かの気持ちを想像して動けるようになった。
たくさんの「ありがとう」をもらえた。
だから、自分はこうして生きてきてよかったと思いたい。
でも──
誰かが「良い」と思う自分ばかりを選びつづける日々は、
心を少しずつすり減らしていった。
誰かから見たら「いい人」な自分、でも苦しくなるのはなぜ?

誰かに喜ばれるたびに、
その人の期待に応えられたことがうれしかった。
「あなたって本当に優しいね」
「気がきくね」
「しっかりしてるね」
そう言われると、
“そうでなければいけない気がして”しまう。
疲れていても、無理をして笑ってしまう。
本当は違う意見を持っているのに、
波風を立てたくなくて、首を縦に振る。
それはたぶん、
「自分が思う自分」より、「誰かにとっての理想の自分」を選んできたから。
いつのまにか、“評価される自分”が、自分の価値になっていた。
だけど、そんな生き方は、いつか限界がくる。
「このままだと、誰の人生を生きているのかわからなくなる」

気づいたら、自分の本音がわからなくなっていた。
好きなもの、嫌いなこと、やりたいこと、やりたくないこと──
全部、「誰かの正解」に塗り替えられてしまった気がした。
それでも、いい人でいようとした。
「ちゃんとしてるね」と言われることに安心して、
少しの違和感に蓋をして、今日も「大丈夫」と笑った。
でも、夜になってひとりになると、心が静かに痛む。
「これは私の人生なんだろうか」
そんな問いが、頭を離れなくなる。
他人の評価で、自分の価値を測るのは、もうやめたい。
本当は、誰かのためじゃなくて、自分のために生きたい。
他人の目を手放して、はじめて見える風景がある

人の目を気にすることが、悪いわけじゃない。
そのやさしさや繊細さは、私の魅力の一部だ。
でも、もう誰かの期待を背負い続けなくてもいい。
「どう思われるか」より、「どう感じたいか」を選んでいい。
自分が自分の心に正直でいることを、やさしいと感じてくれる人もきっといる。
肩の力を抜いて、素直に「イヤだな」「こうしたいな」と言えるようになりたい。
少しずつでいい。
怖がりながらでもいい。
誰かの評価ではなく、自分の声で人生を選ぶ練習をしよう。
大丈夫。
私が私でいることは、誰の許可もいらない。
たとえ誰にも褒められなくても、
私が「これが私だ」と思えるなら、それがいちばん強い生き方だから。