幼少期「夢を見ろ」と言われ、今は「現実を見ろ」と言われる。

Edit by ツバキとミモザ編集部

子どもの頃、将来の夢という作文を書いた

別に、学校の先生を恨んでいるわけではない。
むしろ、正しく導いてくれていたと思う。
だけど、もう少し、大切なことを教えてほしかったと、欲張りなことを思っているだけ。

保育園の卒園式では、参列者に向かって将来の夢を発表する場面があった。
小学校の授業では、「将来の夢」をテーマに作文を書く機会があった。
中学では、将来の夢に向けて進路を考える場面があった。
多くの大人に、「何になりたいの?」と聞かれた。

夢を持つことは素晴らしいことだと教わった。
夢を持つことで、人生が豊かになるものだと思っていた。
夢があるから、人は頑張れるんだと思っていた。

でも、いつからだろう、「そろそろ現実見なよ」と言われるようになったのは─。

いつからだろう、「夢」より「目標」と伝えた方が立派な人間だと思われるようになったのは─。

いつから、「夢」という言葉が呪縛に聞こえるようになったのは─。

現実を見て、夢を追ってるはずなのに

高校に入り、卒業後の進路を考えるときだろうか。そろそろ現実を見ないといけないと思ったのは。

気づけば、「現実的に─」と言われることが増えていた。
自分は、現実も見ているし、その上で夢を追っていたつもりでいたのに。

いつからか、「いずれは、〇〇をしたいという目標があって。」と話す方が、利口な人間だと思われるような気がした。
気のせいかもしれないが、周囲の空気がそう言っているような気がした。

この人生は、誰のためのものなんだろう。
世間に流されて夢を諦めていいのかと、悩んだ時期が長かった。
養う必要のある家族がいるわけでもなければ、介護が必要な身内もいなかった。
18歳から22歳ごろまでは、子どもと大人の狭間で、無責任に生きられる唯一の時期だったと思う。

あの時に諦めた夢は、いつからか目を背ける対象物となった。
叶えている人を見るのがつらい。
この先の何十年という人生の中で、目を背ける対象があることは、いかに窮屈で心苦しいことだろう。

報われるまで夢を追えばいい

「努力すれば夢が叶うのか?」

いつまでも議論されているけれど、努力する方向を間違えずに、自分の心が報われるまで頑張ればよかったと思った。

努力の方向が適切であれば、叶っていたかもしれないと思う。
それは自分に対してのせめてもの甘ったるい優しさかもしれない。
そう思うことで、今の自分を報わせてあげたいと思っているのかもしれない。

先生は「夢を持て」としか教えてくれなかったけれど、「努力の方向が大切だ」とは教えてくれなかったけれど、大人になって気づいたことは、自分の子どもには「努力の方向」を教えてあげたいという気持ちだった。

自分が後悔したことで知ることができた感情は、その分、誰かに優しくなれるのだと知った。

ツバキとミモザ編集部

TSUBAKI & MIMOZA

「この生きづらい世の中で、本物の幸せを見つける、私のための処方箋」をコンセプトに現代を生きる全ての人に寄り添うWebメディア『ツバキとミモザ』編集部。