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心の声に触れすぎて、優しさが迷いになるとき

Edit by tomoda

思いやりは、時に一方通行になる

電車の中で、揺れる手すりにつかまる高齢の方を見るたび、私の心は小さく震える。

「席をお譲りしましょうか」
「どうぞ座ってください」

その言葉は、いつも喉元まで上がって来るのに、なかなか口から出てこない。

あの日、勇気を出して声をかけた高齢の女性に「私はそんなやわじゃない」と怒られた瞬間から、私の中に見えない壁ができてしまった。優しさのつもりが、相手の自尊心を傷つけることがあると知ってしまったから。

それからというもの、私は人の表情や反応を過剰に読み取るようになった。「この人は席を譲られて喜ぶだろうか」「迷惑ではないだろうか」「傷つけてしまわないだろうか」。こうして私は、“自分の中の優しさ”と“恐れ”のあいだで迷い続けるようになった。

見知らぬ人の心を推し量ろうとするたび、自分の行動に躊躇する。そして、その躊躇が、“結局は何もできない自分”を生み出してしまう。優しくありたいのに、優しくなれない矛盾。

心は時に、こんなにも複雑で、繊細な感情を生み出してしまう。

「腫れ物に触るように」という言葉の重み

看護学校の実習で受け持った患者さんの言葉は、今でも私の耳に残っている。

「そんなに、腫れ物に触るように接されると、かえって苦しい」

必死に気を遣って、できる限り丁寧に接していたつもりだった。これが、私の看護であり、優しさだと思い込んでいた。その態度が、逆に相手を傷つけ、苦しめていたなんて。患者さんへの思いやりのつもりが、実は自分を守るための過剰な配慮だったのかもしれない。

相手を気遣いすぎるあまり、かえって距離を生み出してしまう。私が「優しさ」だと信じている行動が、時に相手にとっては「重荷」になることがある。

どこまで気にすべきで、どこからは気にしすぎなのか。その境界線は、人によって、状況によって、瞬間によって変わる。絶対的な答えはないからこそ、“正しい距離感”を求めて、迷い、苦しむ日々は続いていく。

迷いながらも、優しさを手放さない

優しさは、時に人を傷つける。でも、見て見ぬふりをすることも、また人を傷つける。

答えのない問いを抱えたまま、私は今日も目の前の高齢の方に席を譲ろうとしている。時には間違えることを恐れず、自分の中にある優しさを信じて行動することも必要だと思うから。

優しさが誰かを傷つける可能性を恐れるあまり、優しさそのものを手放してしまうことは、もっと大きな喪失ではないだろうか。

私たちは皆、誰かの心を読もうとして、時に過剰に反応してしまう。それでも、その繊細さは、私たちの大切な一部。過剰な気遣いに疲れる日も、無関心になりたいと思う瞬間も、きっとそんな経験を避けることはできない。それでも、私は自分の中の優しさを大切にしたい。

「優しさが時に誰かを傷つけることがあるかもしれないという事実」を忘れずに、前に進んでいくしかない。それが、この世界で繊細に生きる私たちの宿命なのかもしれない。

tomoda

Chief Editor

メディアディレクター・編集者。恋愛も仕事もがんばるフリーランス。