ふとした時に感じる不安感。年齢を重ねるのは私だけじゃない
眠れない夜、思考はさまざまなところへ。不安を煽るメッセージに広告は、どうしてこんなにも夜が多いんだろうか。
私が重ねてきた年を振り返る。毎年近づく誕生日を目の前に数えた年、胸がザワザワする。
年齢を重ねるのは私だけじゃない、親もまた、私たちが「いい大人」になればなるほど年を取るのだ。同じだけ。
年金、仕送り、介護、施設、遠い未来の話は今、目の前にある
「腰が痛いわね」『おばあちゃんだもんね』
「なんだかほんと年だわ、すぐ疲れちゃう」『おばあちゃんもおじいちゃんもゆっくりしててよ、体大事にして』
そんな会話を、ついこの前まで私は自分の両親としていたはずだった。
”おじいちゃんの70歳の誕生日”
”おばあちゃんの介護施設”
あれもこれも、祖父母の孫として、両親と共有しあっていた話だった。
ふと気づけばどうだ。目の前の父親の、目の前の母親の年齢は、遠い未来だと思っていたおじいちゃん、おばあちゃんの年齢のほうが近い。
私はこの人たちの娘。介護義務がある。
定年がないとはいえ、老体に鞭を打ってずっと働かせるのも忍びない。今までと違い、階段や高いベランダへの洗濯物は億劫だろう。
先だと思っていた、もしくは来ないとすら思っていた、どこかで見て見ぬ振りをしていた未来が今目の前にある。
どうすればいいか答えのない夜が明けたらまた、歳をとる準備が近づく
自分が生活するので精一杯。自由になるお金が増えた社会人数年目でも、できるだけ出費を抑えたい。だけど、目の前に見えている親の老後から目を背けることができない。
仕送りを、リフォームを、終活を、介護を、考えずに今まで通りとはいかない日が、近々きっと来るだろう。
明日、起きれば私の誕生日まで1日減っていて、親の誕生日からもまた1日分減っている。歳をとる準備は近づき、体に変化が訪れていくだろう。
今私ができることは。私がしなければならないことは。誰もが直面するのに誰も教えてくれないまま夜が更けて、また不安のタネが大きくなるのだ。