誰かからの“無言の期待”に応え続ける毎日──
「あの人はきっとこう考えているだろうな…だからこう行動しよう」
「きっとこうしてほしいんだろうな、じゃあその思いに答えよう」
誰かからの“無言の期待”に応え続ける毎日。実際に言われたわけではない。でも、なんとなく感じるその期待に、「応えない」という選択肢をとることは難しい。どうやったって、期待に応えたときの笑顔を、期待に応えられなかったときの表情を想像してしまうのだ。
私たちが感じている無言の期待を、本当にその人たちが持っているのかはわからない。でも、誰かと顔をあわせるたび、話しをするたびに、相手の顔色や心情をうかがってしまうのは、繊細な私たちが避けては通れない道なのだろう。
誰かからの無言の期待に、どれだけ押しつぶされそうになっただろう。
誰かからの無言の期待に、何度人生を左右されただろう。
誰かからの無言の期待に応えられず、何度自分を否定しただろう。
繊細な私たちにとって、この世界はとても生きづらい
繊細な私たちは、人に嫌われることを過度に避けようとする。そのあまり、誰かの不機嫌さや、誰かの怪訝な表情に過敏に反応してしまう。
「人の目を気にするのは、やめなよ」
そう言ってくれる友人はたくさんいる。でも、やめたいと思っても、やめようとしても、変えることは難しいのだ。
自分に腹立たしく思ったり、悔しくて泣いたり、傷ついて落ち込む夜を何度も繰り返してしまう。どうすればこの苦しさから解放されるのか、どうすれば無言の期待を無視することができるのか。
考えても考えても、答えは出ない。
でも、誰かからの“無言の期待”を汲み取れる人生も悪くはない
誰かからの“無言の期待”に応え続ける人生は、過酷で苦しい。でも、悪いことばかりではない。
大好きな友人に喜んでもらえる。
大好きな恋人が笑顔になってくれる。
仕事で評価される場面もある。
誰かからの“無言の期待”を汲み取れるのは、繊細な私たちにとっての才能なのだと思う。だからこそ、その才能に潰されないように、コントロールできるようにならないといけない。
私たちの持つ「繊細さ」は生まれ持った性質だから、変えることは難しいから、この性質と向き合って、共に生きていく覚悟を持とう。少しずつ、手探りでもいい。繊細な自分を好きだと思えるように──。