「大好きな人と一緒にいたい」それだけなのに。
結婚をした。大好きな人と。
これから共に年を重ね、あらゆる問題は半分に、幸せや楽しさは倍にして共有していく人生を選んだ。
好きな人と一緒にいるだけで幸せなはずなのに、時々かけられる悪意のない言葉に、重荷を感じてしまう。
悪意がないことはわかっている、だけど。
結婚した直後から聞かれる「お子さんのご予定は?」「孫を見るのが楽しみ」。
まるで義務かのように聞かれる言葉たちには、悪意がない。悪意がないからタチが悪い。
出産して子どもがいなければ一般家庭だと認められないかのように感じるのは、考えすぎだろうか。
まるで、「私たち2人では家族ではない、家庭ではない」と暗に言われているようだ。
現代は子どもがいない家庭も多く、選択的子なし家庭もある。今子どもが欲しいと切望しているわけでもない私は、好きな人と一生一緒にいたいと思った、だから結婚した。それだけなのに。
そう感じながらも、どこかで「まだ考えていなくて」「子どもはまだいいかなって思います。」とはっきり言い切れない自分にも、腹が立つ。
これからも聞かれるだろう。年配の方や、親世代からしたら、禁句でもセンシティブでもない、何気ない質問だ。
気づいた価値観の違い、進んでいく時代で生きている
悪意がない質問に悩んだ頃、友人の
「結婚しない自由や、子どもを産まない・持たない自由がある時代なのにね」という言葉にハッとした。
私たちには選択肢がある。子どもの有無も、結婚の形も、生き方も、自由に選べるのだ。
でも上の世代はどうだろう。結婚し子どもを産み育てることが当たり前で、普遍的だった時代。私たちのように選択肢がたくさんあるわけではなかった時代に生きていたのだから、「子どもはどうするの?」の質問に悪意はまったくないのだ。
悪意がない、けれどタチの悪い言葉たちは知らず知らずのうちに大きな足枷や重荷になっていき、結婚していることを後悔してしまいそうな夜すらある。そんなことは考えなくてもいいと、頭ではわかっているはずなのに、まるで世間のレールから外れたように感じてしまうのだ。
これから歩むのは“ふたりで決めていく未来”
私が結婚したのは、今彼といたいから、そして彼とこの先の人生も共にしたいからだ。
それだけは変わらない事実なのだから、2人でともに支えていければそれが一番良いことだと思う。2人の未来の話が、今の最優先。
誰かの言葉に踊らされずに、好きな人と手を繋いでいられたら、きっとそれだけでいいと思うから。