“見た目”が好きだと言われると、なぜか喜べない自分がいる

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「私のどこが好きなの?」

そう聞いたとき、「色が白くて、童顔で、可愛らしい子が好きなんだよね」と言われた。

その言葉は一見、甘い褒め言葉のように聞こえる。でも、なぜかモヤモヤしている自分がいる。

季節が巡れば私の肌は夏色に変わる。
歳を重ねれば童顔でなくなる日が来る。

そんなとき、彼が示した「好き」はどこへ行くのだろう。もし私が“可愛らしい”枠から外れた瞬間、選ぶ価値のない人になってしまうのだろうか。

極端だけど、そんな考えで胸がいっぱいになってしまう。これは、私の自己肯定感が低いからなのだろうか。

ルッキズムの物差しが奪うもの

見た目は手っ取り早い指標だ。けれど指標はやがて物差しへと姿を変え、人を測り、切り捨てる。なんて残酷な指標なのだろう。

さらに怖いのは、その物差しを自分に向けてしまうこと。

「今日は愛される外見か」
「彼が好きな自分か」
「彼が嫌いな自分ではないか」

と問い詰め、自分で自分を値踏みしてしまう。自分の“好き”さえも切り捨て、“彼が好き”な自分を身にまとう。

ルッキズムは、相手を“条件”で見るだけでなく、自分の心まで締め付ける鎖になるのではないかと、ふと考える。

条件を超えて「あなたが好き」と言える恋へ

肌の白さも体型も若さも、歳月とともに移ろう。

だからこそ変わる私を丸ごと抱きしめてくれる「好き」がほしい。
「私のどこが好き?」と尋ねるのは、ただの褒め言葉を求めるのではなく、“条件では測れない私”を見てほしいというサインだ。

その本音を自分で認め、相手にも伝えていくとき、ルッキズムの鎖は少しずつほどけていく。

“色が白いから”でも“可愛いから”でもなく、“あなたがあなただから”──。
そう言い合える恋を、これからも信じて歩いていきたい。

tomoda

Chief Editor

メディアディレクター・編集者。恋愛も仕事もがんばるフリーランス。